手塚ブログ

いろいろ思ったこと書くつもり

ユクスキュルの「環世界」でお悩み相談してみた。

 

友人から周りと比較してしまうという相談を受けました。

 

自分も自意識は人一倍強いので、正直気にしていた結果、本を読んだり漫画を読んだりで考えて、自分の人生をやるために無駄なことを理解して比べないようになりました。んで、今回は自分が最近知った生物学者ユクスキュルの提唱している「環世界」っていう概念が非常に面白くて、これでさらに払拭できるんじゃないかと思ったので書きなぐります。

 

生物学者ユクスキュルの提唱している「環世界」っていうのは「すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動している」という概念です。動物は知覚している構造があって認知世界を構築しているってことなんです。

もっとわかりやすいようにwikiから「マダ二」の事例を載せておきます。

 

マダニというダニの一種には視覚・聴覚が存在しないが嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれている。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを待ち構える。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知される。そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取り、温度の方向に身を投じる。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつく。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなく、温度と匂いと触った感じでできているわけである。

 

 

ようするに知覚構造そのものによって認知世界が変わってくるということなんですよ。

 

知覚構造→認知世界を構築       :正

構築された世界→知覚構造       :誤

ということになります。

 

 

 ユキュスルは「環世界」の定義は種ごとに築かれているものだと定義しているので、ヒト属ヒト科である人間も大きく1種として1つの「環世界」を持っているとして捉えられているんですよ。

 

けれど、自分はそこに異議を唱えたくて、

そうじゃなくって人間はそれぞれ個人に、「環世界」があると思うんですよね。

 

 なぜかっていうと人間って知覚構造から感じとったものを総合的に理解できる「感性」という知覚構造を持ち合わせていると思うからです。

ユクスキュルはこの「感性」を考慮していません。

 

知覚を綜合して判断することは他の動物にはできないことですし、この「感性」の中身は人それぞれ違うものなので普遍化できないじゃないですか。

 

そうなると、人間はそれぞれ違った知覚構造を持つことが明らかなので、「「ヒト属ヒト科」の1くくりにして1つの「環世界」と捉えられずに、人間1人1人に「環世界」があると考えられるかと思うんですよ。

 

その前提が正しいとすると、イメージとしては、動物全種(約100万種)+人間全員(約65億)それぞれに「環世界」があると考えられます。

 

こう考えると要するに人間同士の認知世界って違う動物同士くらい違うということなるんですが。

だけれども、実際の人間社会をみてみると、人間同士で同じものだと思ってる人が多くて、他人と比較して優劣をつけてたりが起こってるじゃないですか。

 

別の種であって別の「環世界」をもつ、チーターと蛇の認知している世界を比べる事ってかなりナンセンスじゃないですか。比べる同軸にいないよってなるじゃないですか。

うさぎと金魚比べても無駄じゃないですか。。。

本来、これと同じで別の「環世界」を持っている人間1人と人間1人を比べることはナンセンスなんですよ。

 

このことを理解してくると、自分だけの1軸だけが存在しているので絶対的に自分の認知世界が正しいですが、それは他者とは交わることなく独立して存在しているので互いの中に共通の軸なんてものは存在せず、他者と比較しようがありません。

 

ていうか、日本の学校教育に感じる違和感は人間の「環世界」という一つの軸に交わらないものを同一の一つの軸に無理やり立たせるようなちょっと無理がある構造になっている気がします。

 

同じ「人」でも「人」を違った生き物と認識すると、違いを認識するから他人を尊重できるし、違いがわかるから自分を尊重できるんではないでしょうか。

 

他人との比較で悩んで、周りの目が気になったりする人は「そもそも認知している世界が違うしお前は別種のようなものだから関係ねぇ。たぬきと私を比べるようなナンセンスなことだ」と割りきって認識して、それぞれ自分の感覚を大事にすることが大切だと思いました。